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zoom RSS 演劇と私、人生紆余曲折。

<<   作成日時 : 2019/01/15 02:37  

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今回のブログ更新は後で別記事として触れたい項目の準備として作成しました。

1.演劇との出逢い「劇団四季」

 中里小学校中学年(3年生か4年生)頃だったか松園小学校高学年(5年生か6年生)だったか記憶が曖昧だが、学校の同学年で学校行事としてまとまって市内の市民ホールみたいなところにプロの演劇を見に行った。演目は「王様の耳はロバの耳」だった。「正直に言うと殺される」という状況で本当の事を言えるかどうかというストーリー。ある意味「裸の王様」に通じるものがあるが、今ナチュリストとして自分を呼称する身になると、他人を外見で悪く表現する事を良しとするかどうかという意味でいつもこの観劇の思い出が蘇ってくる。

2.演劇との出逢い「リア王」

 松園小学校高学年で私の担任は、クラス内の各班ごとに定期的に出し物を用意させて発表会をクラスの中で行うという企画をしていた。ある時、私の所属していた班では「教科書にあったリア王の物語を書き換えて喜劇にしよう」ということになった。リア王と娘コーデリアの役柄を入れ替えようという話になり、Tさんという女子がシナリオを書いてくれて練習し、発表し、大受けした。ちょうど調べてみると私が小学校6年生の時、購読していた学研の「小6時代」に「おれがあいつであいつがおれで」という男女が入れ替わる児童小説が掲載されていたので、この発想がそれに影響されたとすれば小6の時だったかもしれない。大受けしたので続編も次の発表会で演じたようなおぼろげな記憶がある。

3.演劇との出逢い「観客として観る演劇部」

 黒石野中学校時代、文化祭で演劇部が(おそらく)オリジナル台本を使って演劇をするのを観た。題名が記憶がおぼろげなのだが「4年に一度の・・・」というようなもので、内容は「毎年2月末に殺人事件が起きる。でも4年に一度は事件が起きない。実は・・・」というものだった。私の学年は1967年4月2日〜1968年4月1日生まれで構成されるため、閏年の2月29日生まれの生徒がいる学年だった。それにヒントを得て演劇部が4年に3回起きる殺人事件の謎を解くというストーリーを思い浮かんだのだった。私が劇を観る側から演ずる側に心傾き始めたのはこの作品に出会ってから。当時は陸上部に強制的に入部させられていて演劇部に移ることはなかったが、自分の中で役者とか裏方とか、そういう演劇全般への興味を強くさせたのはこの頃からであった。

4.進路の悩みと高校演劇

 中学3年で高校入試を一回ポカして落ちて、1年遅れで盛岡一高に入学した。入学の際に悩んだのは入部先。山登りも好き、演劇も好き、弓道も好き。3つは選べない。当時の高校のカリキュラムでは、放課後に自発的にやるクラブ活動と、放課後に教科として強制的にやらされるクラブ活動の2つやる決まりになっていた。その2つは同じ物を選んではいけなかったから、私は前者に山岳部を、後者に弓道部を選んだ。

 当時私は強く悩んで学業生活と部活を過ごしていた。それは親との心の断絶が原因だった。幼少から殴る蹴るの父親、そしてその父親に従うことを私に強要し教育に熱心な母親、私に包丁を突き立てて私を殺害しようとした弟。そして私は父親から「この家はお前のものでは無いからこの家のものに一切関わるな」と言い渡され、大好きだった家庭菜園での園芸を禁じられていた。佐藤家の家で私は単なる迷惑な居候扱いにされており、そのような親の金で飯を食い、義務教育ではない高校に親の金で進学し、いつ私を殺すか分からない弟と同居して過ごさねばならなかった。私はいつ弟に殺されるか分からす、机の中には遺書を書いて入れて、「明日生きて目が覚めるだろうか」と考えながら寝床に入る生活をしていた。

 家に居場所がなく、高校には学生寮もあったからそこに入ろうかとも悩んだが、盛岡の家と高校はさほど離れて居らず、わざわざ学生寮に入りたいと言い出すべきかどうか、それにこのまま疎遠な親の金で学費を払ってもらい飯を食べさせられ高校生活を送って良いのだろうか、高校を退学して家を離れバイトで自立しながら劇団で研修し役者か裏方の道に進むほうが良いのでは無いか、と強く悩んでいた。そして高校2年生の秋、受験する3年生(かつての同級生たち)が引退した山岳部の新人戦で早池峰山登山大会が開かれる時、心を決めた。この大会を終えて山を下りたら、その足で家には帰らず独り別の山に入って人気の無いところで何週間か籠もって進路をどうするか決めよう、と。

 私の在学時の山岳部は「入賞を目指さず安全第一で楽しく登る」をモットーにしていたのでまかり間違っても3位入賞してはいけない暗黙のルールがあったが私がリーダーをやった班は4位。危うくモットーを外れるところだった。そして無事部室まで戻って皆が帰宅した後、私はこっそり部室に用意していた家出用荷物をザックに入れて雫石に向かう列車に乗った。駅で降りてバスの車庫に忍び込み、バスの下に潜り込んで夜を明かし、翌朝一番のバスで裏岩手連峰に向かい、山の中に入っていった。

 しかし親が家出先を見破っていた。裏岩手に捜索がすぐに回り、あえなく家出は頓挫し、進路を冷静に考える場所も時間も失ってしまった。その後持ち金の半分で行ける一ノ関駅まで列車で行き(2度目の家出)残りのお金で食料を調達しながらただひたすら盛岡まで歩いて帰った(ちょうど100km)。今度は捜索はされなかったが、もしかしたら警察はマークしていたかもしれない。盛岡まで戻ってその足で学校に出てみるとちょうど期末テスト中だった。「テスト受けに帰ってきたのか」と問われたがそんなことはない。もはや学校に出ても勉強する気持ちにはならず、山岳部に戻る気分にもならなかったから、そこで初めて私は演劇部に入部したのだった。

 家にほとんど帰らず、演劇部の部室のこたつに入って夜を明かし、翌春の公演の練習を始めていた。しかしその年の暮れ、大晦日に部室のラジオで紅白歌合戦を聴きながら、「3年生まで生きて受験勉強し、合格をした上で死のう」と、そう心に決めたのだった。死を決意してからは気持ちが軽くなった。表向き自死を決めたことは毎日書いていた日記にも記さず、ただ3年生の3月が来るのを待ち、勉強と芝居の稽古を続けていた。

 ただ、親からの攻撃は激しさを増していった。おそらく翌年2月頃だったと思う。もう親からの罵詈雑言に耐えられなくなった。激しく罵られた翌朝、私は布団の中で手首に小刀を当てて死のうとした。その瞬間、母親が飛び込んで来て自殺を阻んだ。この瞬間、心ががらんどうの空洞となり、何をして生きるのか何も見つけられなくなった。それきり学校にいかず部屋に籠もって過ごした。それきり演劇の公演の練習にも無断欠席してしまったが、私にはもう何も心に残っていない真っ白な時間だけが過ぎていった。家で過ごす日々をしばらく続けたあと、田老町にある母方の祖母の家に行き、またしばらく過ごした。

 おそらく5月頃だったと思う。岩手医科大学の精神科のカウンセリングに連れて行かれた。何回か通ったが最終的に医大病院に入院を勧められ入院した。「薬を飲んで下さい」と言われて飲んだが世界中がぐるぐる回るような激しい目眩がして薬を拒絶した。ひたすら配膳される食事を摂り、医者が来ない時間は病院内で運動し、岩手で初めて放送の始まったFM岩手に葉書でリクエストを投稿し、採用されるとワクワクする生活を送っていた。気持ちは段々明るくなっていったが、体重がドンドン減り、当時168cmだった私(標準体重は61kg)が55kgまで減った頃、医者が匙を投げた。「ここではもう無理です。別の病院に転院してください。」と言われた。

 次に移ったのは(当時の)水沢市(現奥州市水沢)の胆江病院(現おとめがわ病院)。開放病棟に案内され「ここが君のベッドだよ。」と言われて横たわり「最初に検査します」と注射器を出されて注射されすぐに意識が消えた。

 目が覚めたら前述のベッドではなく、檻の中のベッドに横たわっていた。「あぁ、抵抗されると思って騙し討ちしたんだな。別に最初から檻の中に入れと言われても別に抵抗しないのに。」と冷めた感情が満ちていた。そして医大病院と違って今度は薬を飲むことを拒絶出来ない身分になった。医者はひたすら薬を与え、「ここの病院の売りは運動療法です」と言いながら、一日の中で体育館で動けるのは1時間だけ。後の23時間はベッドに寝て過ごすしかない毎日が始まった。

 私は入院する前から大熊 一夫の『ルポ・精神病棟』と『新 ルポ・精神病棟』 (どちらも朝日文庫)を読んでいたので精神科病棟の内情を観たいという密かな願望があったが、一つ知っていない事実があった。

 私は「医大の医者から頼まれて承諾して胆江病院に転院した」という認識だった。当時の精神保健法による私の入院形態は「同意入院」というものだったが、「私が自由に入院と退院の意志を示せる」という制度だと思っていた。

 しかしこの「同意入院」というものは違っていた。「医者と保護者が同意しての入院」という意味で、私に自由意志を示す権利は奪われ、ホールに設置されている電話機には鍵が掛けられて患者は許可無く外部と通信することは許されなかった。手紙も検閲の対象だった。医者が許さない限り永遠に檻の中で「司法手続に依らない無期限の拘留」の刑に処されたのと同様だった。私はしばらくそこでベッドの上で23時間暇を持て余し、食う以外に何の楽しみもなかったからどんどん太った。「これが胆江病院(現おとめがわ病院)の誇り高い『運動療法』なんだ」と嘲る気持ちだけが募っていった。医者は何にも分かっていない。私は別に精神病でも何でも無い。不登校を精神薬とベッドで治療出来ると思っている時点で医者は馬鹿だった。

 とりあえずこのままここに居続けるわけにはいかない。ここから脱出する道を考えた。自宅を離れて医大病院を含め長い時間が経過し、今度は生きて合格して進学し、当初の第一志望だった地球物理(地震や火山)の研究者になるという道を選ぶ気になった。あの親が高給取りだったからどんなに勉強しても親の年収用件で私は奨学金を貰えない。進学するためにはこれから先大学院まで親の金に頼って生きなければならないが、割り切った。医者に「復学して大学進学したい」と要望し、医者は暫くそれを渋ったが、最終的にOKが出て、退院プログラムという研修を受けさせられ、無事翌春、私は檻の外に出た。

 もしもこの時、医者がOKを出さなければ私は別の道も覚悟していた。司法手続で裁判を受けて牢屋に入るならまだ納得出来る。医者が許さないという理由だけで裁判を受けさせてもらえず無期限の拘留をするなら、檻に入れられる時に看護師が見落として手元にあった小刀で看護師を殺し、外に出ようと。警察に出頭して「裁判を受けさせてくれ」と要求しようと決意していた。幸いそうはならず、無事私は檻の外に解放された。

5.大学進学と劇団活動

 ずいぶん横道に逸れたが更に一年間、二十歳で高校3年生で受験をし、弘前大学にておそらく学科のトップ合格で進学した。おそらくというのは、直前の私塾開催の全国模試において弘前大学理学部地球科学科志望者の得点ランキングで私が全国一位になっていたからだった。これには私自身驚いたが、進学後にそれを回りの学科生が知っていたことにも驚いた。実際は皆他大学も併願していたので模試通りではなかっただろうが、取りあえず第二志望にこの進学先をずっと志望していたから納得の進学だった。

 そして住むことになった学生寮で山岳サークルに入り、大学全体の部活としての「劇団MAPLES」に同時に入団した。学生寮は自治寮として学生がほぼ全てを運営しており、寮生としての役目をこなし、山岳サークルで山を歩き、MAPLESで舞台を幾つかこなし、ミニシアターの「マリオン劇場」という映画館の会員として映画を沢山観て、単位は「2年掛けて取る必修単位数」を「1年半」で取り終えるほど勉強するという学生生活を送った。

 劇団で最初の舞台は大橋泰彦さんの「GODZILLA」(ゴジラ)という既成のシナリオを弘前風にちょっとアレンジしたもの。私は「ハヤタ」という伊豆大島元町派出所の警官役。想いを寄せる「やよい」と三原山で退治されたはずの「ゴジラ」が恋に落ちてしまい、恋敵としてゴジラと闘うという役回り。楽しかった。記憶力が劇団で一番早く、台本は一冊まるごと全出演者分覚えてしまい、演出が指示した言葉も他の役の分も含めてわざわざ台本に書き込まなくても全て頭に入ったので、私の台本は文字修正以外は真っ白なままだった。

 1年生の冬には映画の撮影の手伝いがMAPLESに持ち込まれた。昨年亡くなられた作家の長部日出雄さんが映画監督として自身の書かれた「夢の祭り」という作品を弘前市内や一部秋田県でもロケをし、MAPLESから3人が役を貰って出演し、それ以外の団員も出演者のお世話やロケ地のエキストラのとりまとめなどの仕事を手伝った。私が担当したのは例えば俳優加賀まりこさんの足下に置いた一斗缶のストーブに薪をくべる係。だから自分の真横、動けば触れてしまうほど近くに加賀まりこさんご本人が立っていらっしゃる。感激だった。エキストラに加わる団員もいたが、逆にエキストラのお世話も私たちが手伝った。弘前の子供達はネイティヴ津軽弁で早口で話すので何を言ってるのか全く理解出来なかったが、それもそれで楽しかった。小さな恋もそこで始まり、線香花火のように散ってしまったが、彼女との想い出は今も胸の中にそっとしまってある。

 MAPLESを通じて入る仕事には街中の出し物の着ぐるみを着るというのもあった。私は例えば弘前で初めて出来たコンビニの開店祝いに確かペンギンか何かの動物のぬいぐるみを着たことがあった。真夏で着ぐるみだったから汗かきまくり。子供達とどう接するのがいいのか分からず、いたずらしてくる子供達に戸惑ってそれも楽しかった。

 映画館のマリオン劇場で観た作品は例えば「さよならさよなら、こんにちわ」という作品。まだ冬彦さんとして大ブレークする前の佐野史郎さんが南果歩さんと笑いあり涙ありの素敵な恋をする作品で、私はこの作品で初めて佐野史郎さんと南果歩さんを知ったのだけど、佐野史郎さんは実は先の「夢の祭り」でも出演していたと後から知ったのだった。ロケ地は秋田だったらしく、秋田ロケに参加していたMAPLESの3人と共演したという。「さよならさよなら、こんにちわ」では佐野史郎さんは理系の技術者一筋で職場に同年代の女性はいなくて恋したくても出逢いが無いという設定だったから、科学者目指して男だらけの学科で学んでいた私には何か共感する部分が大きかった。上映期間が終わった後に飾っていた写真を貰えたので、今も佐野史郎さんと南果歩さんが肩並べて歩くシーンの写真が自宅に飾ってある。一度だけ突然同年代の女性から映画館で声をかけられたことがある。同じ映画を観たもの同士として向こうから声をかけてもらったようだったが、普段まったくモテず女性と気さくに話す機会が無かったので、突然女性に声を掛けられることに緊張してしまい、堅苦しい答えをしてしまった。あの時、もしあの女性にフランクに映画の話題で盛り上がっていたら、何か恋が始まって私の人生は大きく変わっていたかもしれなかったなぁと、ちょっと後悔している。

6.劇団引退に至る展開

 頑張って部活2つと勉強をこなして、結果として2年生の後半は必修単位は取得済で大幅に自由時間が増えるはずだった。

 しかしこの頃、学生寮は大きな問題を抱えていた。戦前の旧制弘前高校の歴史を刻む学生寮だったものだから、古いしきたりが幅をきかせ、「蛮カラ」なる風習に都会っ子が増えた当時の学生達が耐えられるものではなくなりつつあった。まともに勉強もしないで毎日麻雀ばかりして過ごす古狸な上級生たちが幅を効かせて下級生を強制的に奴隷のように扱うからどんどん退寮者が続出。古狸な上級生は「どうせ外で高い家賃払って暮らせるから出て行くのさ」と馬耳東風だったが、200人入れる学生寮に残る寮生はほぼ半分近くになっていた。寮費は経費の頭割り。本来の額の倍の値段に跳ね上がり、滞納者も増えて寮の財政は破綻に近づいていた。

 私は1年生の時からずっとこの問題を指摘し、このままでは経済的に苦しい苦学生が住むという本来の学生寮の本質を外れるから改革せよと訴え続けていた。しかし、劇団活動を学内でこなしていく関係で寮の行事に参加出来ないことも多々あった私に対する風当たりは大きく、しかも不平のある人はどんどん去っていくから私のような苦学生で共感を持ってくれる人は極めて少数派になっていた。寮長を務める上級生は事なかれ主義に陥り、単に半期毎の以前の文章をそのままその年に書き換えただけの当たり障り無い決議案を寮生大会に提出し、形ばかりの議論で決議案は採択され実行されていた。

 「もうあきらめよう。この学生寮で暮らすのと、外でアパート借りて暮らすのとどっちが学問に専念できるか考えたら、もう退寮を選ぶしかない」

 そこまで追い詰められていた私に数少ない仲間から声がかかった。ちょうど2年生が学生寮の寮長を引き受ける時期にあったが、古狸な上級生たちの側からは寮長に候補者が出ず、寮長枠だけ欠員の信任選挙となっていた。仲間達は私に「どうか寮長になって改革してほしい」と補欠選挙に出るよう頼んできたのだった。

 私は悩んだ。せっかく頑張って半年の時間を空けて勉強に集中したかった。守旧派が多数の寮を改革するとなるとその半年を寮務で全部潰すことになる。退寮するのも地獄だったが残るのも地獄だった。そして私は不信任が多数出ることを覚悟で立候補し、選挙演説で従来から主張していた学生寮の大改革(下記)

 ・行事は下級生に押しつけず行事実行希望者だけで上級生も含めた実行委員会を結成し行う。
 ・飲酒の強要を禁止する。
 ・一気呑みで「蛮カラ」な旧来の新人歓迎会は行わず、おしゃれで穏やかな歓迎会に模様替えする。

などなどを公約として掲げた。

 「私が寮長になるのが嫌なら落選させて守旧派側から候補を立てろ」

と啖呵を切った。

 開票結果は大接戦となったが、中間派が信任票を入れたためかろうじて私が当選した。画像しかし私以外の寮務委員は守旧派が多数で、寮生大会で決議する改革案を通させまいと何日も徹夜で抵抗してきたので当初は守旧派が出した従来案を決議案として通されるなどがあった。しかし大会前のブロック単位の議論で「何故改革案が出てこないのだ」と守旧派委員が突き上げられる事態となって守旧派の決議案は撤回、私の提案が決議案として再提出されてブロック単位の議論に晒され、最終的に全寮生出席での寮生大会で修正された改革案が決議された。

 私は完全に寮務で空き時間を使い尽くし、これ以上部活動を続けることは困難になった。研究者になるという夢の実現のためMAPLESを引退し、3年生の春に半年の寮長の任期を終えてからは学問に専念した。改革のおかげで退寮者は激減し、寮生数がまとまり、寮費も安くなった。その後の寮は明るくなり、行事に上級生も積極的に参加して、古い上下関係の風潮は薄れた。私は4年生の冬に急遽結婚したため男子寮にいられなくなり卒業の3ヶ月前に退寮し新居に引っ越すことになったのが想定外だった。

7.結婚、就職、離婚、失業、流浪の人生へ

 妻(当時)は重い病を抱えていた。その事は彼女が隣の女子寮に元々いた関係で、寮長まで経験した私の耳には色んなところから私と関係する人々の情報が色々入ってきていたから付き合う前から知っていた。私の従妹も同じ大学に来て女子寮に入ったものだから、彼女がいつ誰(男性)とどこの道を歩いていたとかいうことが耳に入ってしまうのだった。

 色んな紆余曲折があって彼女が私に惚れ込んでどうしても私と結婚したいとプロポーズされ、私は熟慮の上、彼女との結婚を受け入れ、彼女の病気について大学の保健センターと相談してどう彼女の病気と付き合っていけばいいか聴き、病と向き合う努力をしていた。研究室の先生からは彼女の病気は大変重く、きっと君の将来を潰してしまうだろうと言われたけど、私の人生を選ぶ為に病気の彼女を捨てるということは私の気持ちとして絶対出来ないことだった。同時期に他の女性(大切な友達)からも彼女同様のアプローチを受けたのだったが、私は既に彼女と婚約して双方の両親との挨拶も済んでおり、その女性にはお断りをしたという経緯がある。

 そんな所に岩手のDV親から突然の電話が来た。彼女の病気は親には隠していたのだが、やはり面と向かって挨拶した時の様子から感づいて確かめたらしい。DV親からはやはりぼろくそに罵倒された。
 「お前は女性から言い寄られて舞い上がって分からないんだろうが、その娘は重病人だ!それも分からず結婚するなんてお前は馬鹿な奴だ!」
というような言い方だった。私はこのDV親の神経が全く理解不能だし、なぜこんなDV男が岩手県立大学宮古短期大学部の助教という要職に抜擢されるのか理解不能だった。彼は「エスペラント」という人工言語で世界の人々を平等に結びつけようという運動の権威だった。本職は英語教師だったが、自宅に来る外国人と英語以外にこの言葉でも会話して交流していたのだった。

 どんなに異国の国の人々と会話する技術があっても、最も身近な家族とコミュニケーションが取れないこのDV男は、私がどれほど重い覚悟で彼女の病気と向き合っているのか理解出来なかったし、DV女である母親やその親戚達も含めてこの結婚に全面的な祝意を寄せる人はいなかった。ある親戚は、私の方が苗字を妻の小野田という苗字に変えて連名で結婚の挨拶を出したのに、わざわざ旧姓の佐藤の苗字に私たちの名前を書き直して返信を寄こすような嫌みまでされた。大安祝日に式を挙げたいと妻が望んだので、双方の両親と兄弟姉妹だけで式を挙げたが、DV親、DV弟たちは全く乗り気でなかったと式の前日までずっと言われ続けてのぼろくそな扱いを受けた。唯一、妻の同級生達、そしてMAPLESの仲間達がお祝いの会を開いてくれた。それがとっても暖かかった。

 そして大学院に進み研究をしていたが、研究室の先生の予言通り、彼女の病気は予断を許さなかった。ちょっとのボタンの掛け違いが彼女の病気を重くしてしまい、研究を中断して彼女を故郷に連れて帰らざるを得なくなり、しかもその故郷で彼女の症状が末期的状況になって家族全員が彼女に振り回される修羅場となった。私はもはや夫として傍にいることも不可能になり、別居して二人とも精神科に通う有様に陥った。そして私はその時の病院の不可解な扱いに混乱し警察に逮捕されてしまう事件を起こした。

 最終的に病院側が非を認めて訴えを取り下げたので私は不起訴となり、逮捕、勾留、再勾留の23日間牢屋に入って釈放された。私は妻を妻の故郷に残し、独りで大学院に戻り、中断していた研究を再開した。本来2年で追えるはずの修士課程を3年半かけてしまったが、なんとか修士論文を提出し、修了できた。医者不信で薬を拒絶していた妻は私が逮捕される前から私と家族の連携で薬を食事に混ぜていたので、私が別居していた間に少し小康状態になっていた。これで後は私が就職することで彼女を経済的に支えるかもしれない一時の幸せがそこにはあった。

 しかし残念なことが起きる。時はアトランタ五輪間近という時期。母方の従妹はシンクロナイズドスイミングのチームで五輪出場が決まっていた(旧姓)高橋馨(かおり)で、母方の祖母は孫の晴れ姿を初の海外旅行でアトランタで観戦する手はずになっていた。祖母は貧乏な私たちの結婚費用を出してくれた、唯一心許せる存在だった。その祖母が出発までもう少しというところで倒れた。末期の肝臓癌だった。急遽入院となり、二人一緒に岩手県立宮古病院にお見舞いに行くこととなる。私は就職活動中。公務員試験の筆記は合格していたが二次試験(面接)はまだだった。私の妻しか看病に残れる人間がいない。病気の悪化を懸念したものの、五輪が終わってからまもなく、やむなく妻を宮古に置いて私が静岡に帰ることになった。

 祖母は最終的に病院のベッドで孫の活躍をテレビ観戦し、メダル授与を見届けてから深い昏睡状態に陥った。実は顔面が麻痺していただけで意識はあったのだが、見た目には昏睡状態だと見えて、医者も看護師も親戚達もそう思っていた。しかし祖母はしっかり耳が聞こえ、意識があり、手を握り返すことが出来るということを私が見抜いた。看護師立会で私が祖母に「〇回握って」と数を伝えると、正確にその数だけ手を握り返し、それを確認したスタッフは祖母に意識があることを確認出来たのだ。その祖母を妻に託して後ろ髪を引かれる思いで私は静岡に帰ったのだった。

 静岡で就職活動していた私に妻から「最期を看取った」と連絡があった。葬儀も妻だけ出席してもらって、妻は帰国した従妹からメダルをかけてもらったらしい。しかしこれが最後の安らいだ思い出になった。葬儀を終えて静岡に戻ってきた妻は明らかに病状が悪化していて症状が一進一退していた。そこに追い打ちを掛けたのがいわゆる「ご優待キャンペーン」という名の海外旅行「当選」という知らせだった。賢い消費者なら分かるこの手口に妻は引っかかってしまって何が何でも海外旅行に行くと舞い上がった。「ご招待」ではない。「ご優待」だ。「安く行ける」という言葉に騙されて彼女は旅行のスケジュールを進めてしまう。私は公務員試験は面接で落とされ民間で職探し中だった。海外旅行など行けるわけがない。彼女はそのことを理解出来ず、しかも妻の両親は共働きで義父は静岡県庁の土木部の要職にいたお金持ち。親の金で妻は海外に行ってしまう。「なぜ一緒に行かないの?」と妻に問われて答えても彼女は私が一緒に行けない理由が理解出来ない様子だった。

 海外旅行から妻が帰った時、私は正規の派遣業者の派遣社員としてようやく就職を決めていた。自分のスキルであるプログラミングを活かせるソフトウェア開発の部門で、当時静岡県の最低賃金が700円程度だった時期に、新人の私でも時給1500円貰えたから、8時間の定時上がりでも充分自活出来るはずの高給だった。新人で無く何年か勤めたベテランになれば時給は3000円ぐらいもらっていた。この仕事を失わなければ、なんとかなるはずだった。

 しかし帰国後の彼女は迷走を続けてしまう。お得と聞くと悪徳業者の典型パターンに見事にはまって目が血走る。とうとう彼女はたしなめる私を敵と見る様になってしまった。妻側の家族全員から私は敵視され、とうとう彼女を両親が私の知らないアパートに引っ越させて「離婚届にサインしろ」と言ってきたのだった。私はどうしても離婚したいのが彼女の希望ならそれを受け入れるつもりだったが、彼女の家族が穏便な解決を望まなかった。財産分与には保有するコンピュータソフトのライセンス契約もあり、彼女が私と離婚すると彼女のパソコンからそのソフトを外さなきゃならない契約だった。そのことを直接伝えたいのに彼女の家族が間に入ってそれを咎めたりするものだから諍いが大きくなる。私は彼女を街中で発見し、二人でしっかり財産分与をしようと連絡方法を約束したが、彼女の家族はその約束を阻んで膠着状態になってしまった。

 私は彼女がどこに住んでいるのか当初は突き止める必要を感じていなかった。連絡さえ取れていればどこにいても構わなかった。しかしこの状況で離婚を果たすには最終的に私は彼女のアパートを突き止めて彼女と直接話す以外に道は無かった(彼女の親がちゃんと弁護士立てていたなら良かったがそれさえ考えない家族達だった)。私はせっかくの貯金をはたいて興信所で住所を突き止め彼女のアパートに行った。そうしたら彼女は離婚の意思はないと言う。彼女は私とこれからも一緒に暮らしたいと言いだし、今度は家族が彼女にきつい態度をぶつけるようになった。そして彼女は一旦自宅(彼女の実家)の私の部屋に戻ってきて大暴れを始めてしまう。真夜中だからどうか静かにしてくれと頼んでも彼女の暴走は止まらない。義弟が部屋に怒鳴り込んできて私のせいだと言いがかりを付け殴る蹴るの暴行をしてきたのだった。

 どんなに誠意をこの家族に見せても通じない。義父母は「たけし君、静かにしなさい」と言うだけ。義弟の暴力を野放しにするのを見て私も態度を決めた。パトカーを呼び、義弟を逮捕するよう求めた。しかし警官はこの家でどんな暴力が起きても「民事不介入だから」というでまかせの理由で義弟を逮捕しない。私は怪我を負っており、夜間救急で診察を受け診断書を沿えて改めて清水警察署に訴えを提出したが彼等は受け付けない。「死人が出ない限り何もしないよ」と言い返されてやむなく私は住処を失い、路上生活に落ちることとなる。

 職場に「社宅を手配してもらえないか」と持ちかけたが、「何年か勤めた実績があるなら考えられるが、入ったばかりの人に社宅は手配できない。住所が無い人をこれ以上雇えない。」と言い渡された。私は清水市役所に生活保護を求めた。住処だけ確保してもらって今の仕事を続けて自立したいと求めたが、当時はいわゆる「水際作戦」という保護拒絶がまかり通っていた時代。どんなに頼んでも保護して貰えない。役所は「その仕事を諦めて住み込みの仕事を見つけなさい」と追い返すだけ。やむなく泣く泣く時給1500円のスキルを活かせる仕事を失い、もぐりの派遣会社がやってる時給700円の短期の単純労働の仕事に転職することとなった。エアコンのラインで流れてくる製品の種類毎にそれぞれの専用シールを貼るだけ。私の学んだパソコン関係のスキルは一切要らない単純労働。最低賃金でしかも借りる部屋の家財道具のレンタル代が大きく引かれるからほとんど手元に残らない。契約期間も不明で明日が見えない仕事。妻は彼女の実家で私と結婚生活を続けたいと言うが、義父母からは「たけしと離婚するなら実家で暮らして良い。結婚し続けたいなら自宅を出て二度と戻って来るな。」と言い渡す。今の病状の彼女が婚姻を続けたいなら、病状が落ち着くまでの一定期間入院して服薬をしっかり摂る必要があると医者も私も同じ見解。妻、私、医者、の三者で最終会議を行う。医者からは「診察時間が終わるまではベッドに空きがあるが、それまでに妻が入院に同意しないならベッドは別の人に渡す。これが最後のチャンスです。」と妻に告げる。妻はそれが理解出来ない。ただひたすら草薙の自宅で私と一緒に暮らしたい、入院は怖い、嫌だ」を続けるばかり。全く進展できないまま診察時間が終わってしまった。私は妻に「もうこれで離婚が決まったよ」と告げる。そこで初めて彼女は取り乱した。「今から入院するから離婚は止めて!」と懇願されたが、それを言うのがもう遅すぎた。もうベッドは別の人に渡ってしまってもう入院出来ない。離婚しか無い。そう告げると彼女は放心状態になった。離婚の手続を待つ彼女の実家までの電車で彼女は放心状態のまま。降りる駅でも意識が無い。彼女が降りないまま電車は駅を出発してしまう。ずっと駅で待っていたら、だいぶ時間が経ってからやっと逆方向の電車で彼女は駅に降りた。一緒に実家に向かう。離婚届にサインして捺印して、これを翌日私が市役所に出したら離婚が成立。そうして私たちの結婚生活は終わった。

 その後の私は独身に戻り、小野田姓を続けたまま今日に至る。25回就職して25回退職(解雇)に追い込まれて20年以上生きて今は無職。激務がたたって鬱病を患い、今度は本当に私も精神障害者になってしまった。生活保護でようやく細々生き延びている。

8.今の私と演劇

 この20年間、怒濤の日々を過ごしてきた。仕事を覚えるのは速いと褒められるが、動作が遅いと叱責されて結局首になる。サービス業には軒並み不採用ばかり。正社員の仕事の無い就職氷河期を違法派遣のブラックな職場を転々として生きてきました。だから世間で有名だったドラマとか芝居とか見逃している作品が多数あります。時々は映画をみる機会がありましたが、数年に一回程度でした。

 やっと今、生活保護が落ち着いてきて、じっくりテレビを見る時間も出来つつあります。高校時代に観た映画「Wの悲劇」で、親元を離れて役者をする道をと真剣に思ったくらい演劇には気持ちが残っています。だから役者がどういう演技をしているか、どう芝居と向き合っているかとか、そういう姿勢を観ることがとても興味あるし、途中で道を諦めたとは言え、役者の端くれでしたから、偉そうな学者や職業ライターが偏見丸出しで書き綴る評論などを読むと腹が立ちます。「どこを観ているのだ!」と。最近も身近でそういう話題が続いたので、それを語る上で、背景となる私の演劇への思い入れの有り様をある程度語っておきたいとパソコンに向かいました。

 今回のこのブログ記事だけでは何も伝わらないだろうと思います。実に支離滅裂と映ることでしょう。私もこんなに端折った書き方で伝わりきるとは思いませんが、一応、後で書く記事の背景に少しでも書かねばと書き綴りました。

ではでは。

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演劇と私、人生紆余曲折。 かわいい猫には、また旅をさせよ。/BIGLOBEウェブリブログ
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