妖精と「トイレの神様」 憲法記念日に思う天皇論

何回か書いたことではあるが、私は「神」の存在を信じる。
ただし、「○○教」とかいう組織・宗派には所属しない。
唯一絶対の神に名前も組織も宗派もないから。
ただ自分自身がその存在を信じていて、
その神の前には、人間も生き物も全てみな同じ命、
同じ存在で平等である。
「天は人の上に人と作らず、人の下に人を作らず。」
という言葉をそのまま実践すると、日本社会ではすぐ壁にぶつかる。

私は仕事で会う相手が取引相手(お客様)であるとき、
「丁寧な言葉遣い」は心がけるが、
相手がこちらを見下す態度に出れば、
あくまでも対等なビジネスパートナーとしての関係を
前提にした言葉遣いを貫く。

上司に頭ごなしに侮蔑されれば、あえて「タメ口」で返す。
逆に年下相手でも丁寧語を使って「目下」とは扱わない。

左翼の雑誌を見れば、憲法記念として
「如何に天皇制の存在が人権を蹂躙しているか」
がゲップが出そうなくらい書きたてられている。

しかし、天皇制というのは、国家機関としての側面以外に、
「日本神道」の頂点にいて祭祀を司る存在でもあり、
日常のそこかしこの「神社」や「道祖神」「お祭り」など
全てにその存在の影響は染みわたっている。
地域が、家族が、近所の神社や祭りを大切にすることと
天皇とは切っても切れない関係にあるのである。

無神論を唱える人たちは論理的に天皇の存在にばかり
敵意に近い論調で熱く語るが、地域で暮らす人たちから、
「神的なもの」の一切を排除しないかぎり、天皇の存在は消せるものでない。
単に鬼の首を取れば万事解決するかのうような理想論は机上の空論だ。

今、人々の涙を集めている「トイレの神様」なる歌も、
そもそもそういう「神様」がトイレにいるという設定である。
トイレの神様に良いことをすると良いご褒美があると、
子供心に信じてせっせとお掃除をするお話である。

多神教である日本神道だからこそこの場合は「神様」だったが、
一神教の西洋欧米でも意外に「妖精」たちが魔法をかけたり
いたずらをしてきたりという土着の存在が語り継がれているところは
トイレの神様を信じることと大差はない。

天皇制が日本だけの特殊な存在だという見方に凝り固まった頭では
結局それに値する存在が西洋民主主義国家・自由主義国家であっても
似たり寄ったりで存在することに思いが至らない。

だから、右翼の唱える天皇崇拝も左翼の唱える天皇廃止論も
どちらも空虚で無駄に思える。どっちに転んでも
本当の幸せを民衆が手にすることはないだろう。

今日は憲法記念日。
いろんな動きがあると思うが、
私は日本と言う国の歴史やアイデンティティを語る上で、
天皇がそこにずっと存在してきたことの一定の価値を感じる。
私は人間天皇が国の個性を語る上で、今後も何らかの形で
存在していることに拒絶感はない。

問題は、一人ひとりの国民が行政・立法・司法・報道の全てに
主体的にかかわっていけるかどうかだと感じている。
だから、こうしてブログやツイッター(twitter)などを通して、
人々の関心が少しでも高まることに力を注いでいるのである。

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