「何故カネゴン達は15/続・誇れない国にしておきながら…」について

何故カネゴン達は15/続・誇れない国にしておきながら…」について
自民党ほど多数ではありませんが、
国旗国歌の強制に執着する主義の人たちは
民主党にもそこそこ存在しております。

ただ、私は国旗国歌を持つこと、
およびそれが日の丸と君が代であることについて
執着も反発もどちらでもない感覚があります。
それは刑事裁判にも似ているのですが、
人間の罪を裁く上で、
「いずれはまた社会に復帰させる」
か、
「社会への復帰を絶対認めない」
か、
そのどちらを前提にして刑を下すかによって、
結論が大きく変わるからです。

前者の立場に立てば、またその罪人(つみびと)を「同じ顔」「同じ声」で
隣人として迎え入れなければなりません。

殺害と強奪を犯した者を二度と社会に復帰させない後者なら、
死刑でも終身刑でも使って排除する選択肢がありますが、
こと「国家」という存在になると、
日本が犯した殺害と強奪の罪(つまり戦争や植民地政策)を持って、
日本という存在を地図上から抹殺するということは
なかなか出来るものではありませんでした。

最終的に日本が無条件降伏をした上で、
「戦争で与えた罪を反省し、戦争をしない国家に変わる」
ということで日本は国際社会に復帰することを認められたわけです。

他の帝国主義国家たちの争いに加わった戦前日本が
その帝国主義たちと同罪であったことに疑念はありませんが、
罪人がもしも「顔を変え」「声を変え」「名前を変え」て
あたかも別人になって復帰してきたことのほうが
私は恐ろしいと思います。

罪人が昔通りの顔(国旗)と声(国歌)を持ったまま
しっかり罪を罪として認めて「心を入れ替えて」
同じ名前(日本)で反省して社会に復帰することが
隣人(国際社会)から本当の信頼を得ることこそ
一番に求められるのではないでしょうか。

私は日の丸と君が代を捨てるということは、
あまりにも形式にこだわる反省の仕方であって、
本質論とは思えないのです。
罪人が社会に戻るにあたって、整形手術で
顔や声を変え、戸籍も作り変えて全くの他人のふりをして
戻ってくるのに等しい反省の仕方だと思うのです。

かと言って、国旗・国歌を強制していいというのも
全くおかしい話です。
きちんと国家が過去の戦争と植民地支配の反省をし、
人権を大切にする国家として国際世論を主導できる国家に
生まれ変わったのなら、自然とこの国に生まれ育った人々は
日本に生まれたり渡来してきたことを誇りと思い、
他国も日の丸や君が代(私個人としては「民が代」を追加提案していますが)を
憧れてもらえることに繋がると思うのです。

「愛せ」と命じて強制されたって愛してもらえません。
日の丸・君が代を強制する人たちはあまりに尊大な態度で
自らを「愛されるに値する国民」と信じて疑いませんが、
「他人から愛される」ということは強制では実現しないのです。
私は日の丸も君が代も好きですが、
彼らのような尊大な態度で国民に国旗・国歌を強いる政策を見れば、
とても自分が日の丸・君が代が好きだと言えないのです。

愛する人と愛の繋がりの中で結ばれたいのに、
国粋的政策を推し進める人たちは、
強姦をしてでも結ばれれば良いと声高に言うから、
素直にSexの素晴らしさを語れなくなる。

逆にSexそのものを悪しきものと言う人もいて、
Sexを求めないことが善と信じて疑わず、
Sexを語ることを強引に阻止する。
私から見れば、「反日の丸・反君が代」の
原理主義者たちはそう見えます。

「国粋主義者vs原理主義者」の不毛な争いの
どちらにも加担できない。
私はそんな気持ちでいるのです。

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