「国民を救援する」という団体

社会に働きかける団体を運営するということは
そのこと自体で、働きかけに友好的な政治勢力と
敵意を向ける政治勢力との軋轢に巻き込まれて
しまいがちである。自分の労働問題を通じて、
とりわけ先に関心を向けてくれた団体に当初
所属してきたが、必ずしもその団体は政治的に
中立ではなかった。

「国民を救援する」ということを団体名にしているその組織は
いつも私のところに団体の新聞を送付してくれていたのだが、
毎年冬には組織に貢献して死没された人たちを「解放戦士」
として顕彰する行事を行う。そこに記される名前の8割9割が
国民の数%の支持を受ける政党の肩書きを並べている。

主張が正しくても社会が目覚めていないから支持が数%なのか、
社会の構成員の利益よりも団体としての規律を優先するから
民衆の支持が大きく離れていったのか。それはその団体に
友好的か否かで結構割れそうなトピックである。
その団体を私に置き換えても同じ問題は発生するだろう。

だから、組織運営は難しい。かつて支援した男女差別された
社員の裁判においても、勝利和解した原告同士が、今、
裁判で互いに争っている。

その「国民を救援する」という自称人権団体は、とりわけ、
その支持政党の政策と共通する「組織の綱領」を掲げる。
人権問題として活動したくても、その団体員として活動する際に、
政治綱領まで納得する義務があるのでは、最初から仲間を
切り捨てなければならない。この組織が支援する事件は
確かにその詳細を見てみれば見過ごすことの出来ない
人権侵害を多く含む。

しかし、彼らはその政治団体への忠誠を誓わない人間が
憲法で保障された権利を侵害されていても見て見ぬ振りをする。
せめて面会だけでも申し込んでも、
「解放戦士顕彰の行事が忙しい」
という理由で面会を拒んで何ヶ月も放置する。
組織の構成員の年代構成が極端に高いせいか
「IT企業」と「サラ金」の区別ができないような
社会においていまや当たり前の基礎用語が通用しない。

かといって、彼らの抱える事件自体は、私には見過ごせない。
私は政治的にどちらに立つかどうかで事件を見過ごすかどうか
判断するつもりはない。彼らの側が私を仲間と見てくれるなら
政治的に違っていても支援したいが、私を仲間と見たくないなら、
私は彼らのその選択を尊重する。ただし、そうする以上、
彼らに「憲法を守る砦」を名乗る資格はないと思う。
憲法を真剣に守りたいなら、その改正手続きを定める法律制定を
阻止することにエネルギーを注ぐべきでない。改正手続きが
実行されても、「守りたい条文を支持する世論を作ること」に
エネルギーを注ぐべきなのだ。

私は天皇制に反対ではないし、軍事力を強化すべきかどうかの
立場で政治的に正しいかどうかを判別するつもりはない。
個人として、それぞれの政策への賛否はあるが、
それに100%共鳴するかどうかで人権問題への意識が正しいか
どうかの踏み絵にする既存の自称人権団体と同じことをしたくない。

いまや政権政党の中にあっても、家を焼き討ちされても世論が
こういうテロにほとんど反発しない時代である。もちろん、
「国民を救援する」と自称する団体も、この政治テロに
未だに無関心である。先の戦争で命を奪われるほどの弾圧を
受けても政治信条を曲げずに戦った先人には敬服するが、
その後継者たちは、世論を盛り上げることよりも、
自分たちの組織に異論を唱えない忠実な戦士を育てることに
一生懸命である。

わたしはそういう「組織の忠実な戦士」になるつもりはない。
社会の一員として、他の人の人権を侵害しない範囲において
一定の社会責任を果たすつもりではあるが、無責任な自由主義でも
社会責任をことさら強要する保守主義者でもない。

私が青年を過ごした時代はまだ学歴偏重で、大企業に就職することが
社会のステータスとして信じられていた。それから少しでも外れた時点で
落伍者として叩かれる。

だが、クラスメートでさえ競争社会の中で叩き落さなければ
自分の学力がトップに立たないと、当時の社会人たる親の世代が
子供たちを教育した結果が、現在の親世代や若者世代にみられる、
他人への無関心、弱いものがより弱いものを攻撃する社会である。
新首相は「美しい国」を追い求めているが、皮肉なことに、
このような他人を蹴落とすことを美徳として子供たちを教育してきたのも
その首相の出身政党であったし、その政党を勝たせることを結果的に
助けてきた野党であった。

私はその社会に対する建設的提案として、敢えて私の理解する
ライフスタイルとしての「ナチュリズム」を提案している。
その目的は、第一に自らの心の解放にあるのは確かだが、
その先に、かつての「トモエ学園」の目指した穏やかな未来がある。

子供の裸のスナップが児童性愛主義の性の餌食になることを
憂う感情を共有している一方で、児童性愛者を増やす原因の除去に
根本的対策を置くべきか、児童性愛者そのものを罰して絶滅することに
根本的対策を置くべきかで、私と私への反発者が争っているのである。

私は、禁酒法を徹底しようとした結果、かえってその法律が闇組織の
経済的勝利を生み出した歴史的教訓を大切にしている。
児童性愛を減らしたいのであれば、彼らを闇社会での成功者にすべきでない。
社会の一員として、穏やかな支援組織を立ち上げ、緩やかな規制の下、
精神医学的アプローチで彼らの根本的治療にエネルギーを注ぐべきと
考えている。

病気に西洋医学的アプローチだけで対処するよりも、
東洋医学的アプローチも取り入れたほうが総合的に見て
結果が良い事は、日本ではかなり認識されてきたところである。
社会問題に対する諸問題に似たようなアプローチはあり得るのであり、
私がなぜナチュリズムをこれほどまでにこだわっているのかも、
根本的にそこにある。私は単なる露出狂でも、児童ポルノ支援者でもない。
経済的にどん底で苦しんでいながらも敢えて裁判で戦っている真実は
そこに理由があるのです。

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この記事へのコメント

小野田 英(おのだ たけし)
2006年10月05日 13:12
ポーさん、面白いニュースを見つけてくださいましたね。
私も興味深い。ネット社会前に始められたノートンさんなら
この実力行使もありえるし、都市によっては町中で全裸でも
逮捕されない自由な地域があるのは事実なので、
この事例だけ取り上げるライブドアが何の意図を持って
このトピックだけ紹介したのか、自由に都市を裸で歩ける事例を
なぜ紹介しないのか、ある意味勘繰りをしています。

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